好酸球性多発血管炎性肉芽腫症 (EGPA) とは?
正式名称
正式名称は、好酸球性 多発血管炎性 肉芽腫症 (こうさんきゅうせい けっかんえんせい にくげしゅしょう)。
現在、この名称で、指定難病の医療費受給者証を申請する。
英語の呼び方
英語では、EGPA(イー・ジー・ピー・エイ)という略称で呼ばれている。
患者のや医師の間でも、この EGPA という呼び方が日本でも一般的だ。(日本語名の正式名称が長すぎて覚えにくいので)
正式な英語の病名は、Eosinophilic Granulomatosis with Polyangiitis(イーオシノフィリック・グラヌロマトーシス・ウィズ・ポーリィアンジアイティス)と言う。
- Eosinophilic: 好酸球増加性
- Granulomatosis: 肉芽腫症
- with: ~をともなう
- Polyangiitis: 多発血管炎
昔は違う名前だった
EGPA という呼び名は 実はまだ新しい。以前は 下記の名前で呼ばれていた。
- チャーグ・ストラウス症候群 (Churg-Strauss Syndrome; 略称 CSS)
- アレルギー性肉芽腫性血管炎 (Allergic Granulomatous Angiitis:略称 AGA)
2012年に、全身血管炎の分類について話し合う国際会議(チャペルヒル・コンセンサス会議; Chapel Hill Consensus Conference) で、EGPA が正式名称として、解明された。日本語対語「好酸球性多発血管炎性肉芽腫症」は翌2013年1月に、医学用語管理委員会が正式に発表した。
かつては、チャーグ・ストラウス症候群が 一般的な呼び方であった。チャペルヒルの前に確定診断を受けた筆者も、チャーグ・ストラウス・シンドロームとという言葉を医師と使っていた(筆者はアメリカで診断を受けている)。私のように闘病が長い患者にとっては、チャーグ・ストラウス症候群のほうが馴染みが深い。
いずれも、全く同じ病気 (EGPA) を指す。名前が変わっても、診断基準は 何も変わっていない。
一説によると、最近の医学界における「病名に人名を使うことをやめよう」という傾向が 背景となっているようだ。
参考:
eosinophilic granulomatosis with polyangiitis(EGPA)の日本語病名に関して
Chapel Hill Consensus Conference 2012で採択された血管炎の名称と定義
Arthritis & Rheumatism
EGPA の歴史
1951年、アメリカ・ニューヨークにて、EGPA は提唱・定義づけられた。数多くある自己免疫疾患の中でも、EGPAの発見は戦後間も無く、歴史は浅い。
これより以前は、単なる難治型の副鼻腔炎や喘息・血管炎と誤診され、多くの EGPA患者が 正しい診断だけでなく 正しい治療を受けられず、命を落としていたといわれている。
EGPA を提唱・定義づけた医師は、旧病名になっている二人だ。
EGPAを提唱・定義した医師
ヤコブ・チャーグ医師
Dr. Jacob Churg (1910~2005)
ドクター・チャーグは、ベラルーシ/ポーランド出身の病理学者(医師)だ。元々は腎臓のバイオプシー(生検)における先駆者であった。
経歴
- 1910年 ベラルーシ共和国にて生まれる(ただし当時はロシア。その後はポーランドになる。現在はベラルーシ共和国になったドルギノヴォという村)
- 1933年 ポーランドの ヴィリニュス大学 (University of Wilno) の医学部を卒業する
- 1936年 政治的な問題でアメリカ・ニューヨークへ移住する
※ ニューヨークのマウント・サイナイ病院 (The Mount Sinai Hospital)で皮膚科医をやっていた叔父を頼って移住 - 1942年 マウント・サイナイ病院にて、病理学者になる
※ 外科や内科なども色々経験した上で、病理学を選んだそうです。 - (1945年 第二次世界大戦 終戦)
- 1951年 チャーグ・ストラウス症候群を定義する
- 2005年 アメリカ・ニューヨークにてご逝去
ロッタ・ストラウス医師
Dr. Lotte Strauss (1913~1985)
ドクター・ストラウスは、ドイツ出身のアメリカ人病理学者。小児および周産期の病理学者の先駆者であり、のちに胎児の発達病理学に大きく貢献した。
経歴
- 1913年 ドイツ・ニュルンベルグで生まれる
- 1930年 ドイツで医学研究を開始する
- 1937年 イタリアのシエナで 医学研究を修了する
- 1938年 アメリカ・ニューヨークへ移住する
- 1941年 マウント・サイナイ病院にて病理学者になる
- 1951年 チャーグ・ストラウス症候群を定義する
- 1953年 マウント・サイナイ病院で最初の小児病理学者になる
- 1965年 小児病理学会を共同創設する
- 1985年 ご逝去
参考/画像出典: LIFE IN THE FIRST LANE