基本情報
リサ (前向きカリフォルニアガール)
日本から 8,000km 離れた アメリカ・カリフォルニア州にて、EGPA確定診断を受けた、闘病記録。
何年も喘息・副鼻腔炎に苦しんだのち、2012年、足に紫斑が現れ激痛で寝たきりに。 3ヶ月かかって診断に至った。
正しい医師に会うことの難しさ、海外での闘病の大変さを体験。
闘病&仕事をしながら、アメリカの州立の大学院にオンラインで再挑戦。闘病2年目に開始し、2017年 MBA首席卒業。
本サイト管理人。
EGPA 確定診断
性別 |
女性 |
確定診断時の年齢 |
20代半ば |
確定診断日 |
2012年 4月 |
診断病院: |
アメリカ・カリフォルニア州 ビバリーヒルズ Cider Sinai Hospital |
担当科 |
リウマチ専門医 (Dr. Elyane Garber) |
主な自覚症状 |
重度の副鼻腔炎、喘息、多発性神経炎(ニューロパシー)、紫斑(足)、肺炎、体重減少 (1ヶ月で6kg) |
EGPA 診断前のわたし
わたしは アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルスの南80kmにある街で働いていた。揺れるヤシの木、素晴らしい友人。広々と開放的な毎日で、人生最高の時を過ごしていた。一方で、当時リーマンショックなどもあり、就労ビザや就職率などの状況は悪化。アメリカにいる多くの外国人が、常に解雇・本国緊急帰国の過度なプレッシャーやストレスにさられされていた。日本国籍のわたしもその一人だった。
幼少時 軽度アトピーがあったが、小学生になると自然となくなった。高校生くらいからは 鼻炎気味で、市販の点鼻薬や風邪薬を使っていた。
2015年ごろになると、飛行機に乗ると頭や耳激痛に悩まされるようになる。耳抜きがうまくできず、鼓膜が麻痺し舌が痺れる。この症状は、航空機性中耳炎に似ているとも言われた。しかし実際は、EGPAによる原因不明の耳管の病気とされている(2019年12月現在治癒していない)
2009年 4月ごろから、咳が止まらなくなった。「咳しててごめん、でも風邪じゃなくて喘息なの」と、周りに謝って回るようになる。その後、激しい咳により 車の運転や仕事にかなりの支障をきたすようになった。(確定診断後に気がついたのだが、2009年春に受けた健康診断で、すでに好酸球の数値が、基準値を超えていた。すでにフェーズ2に入っていたものと思われる。)
2010年後半には、呼吸が苦しく ゆっくりしか歩けなくなる。スポーツ中、肺に空気が入っていかず息ができなくて、異常にまでに咳き込むようになり、血吐や嘔吐を繰り返すようになる。アメリカの医療制度は、日本の国民皆保険とは違い、気軽に病院には行けず、かつ医療費は10倍以上。比較的安価な 喘息発作用の吸引機を吸ったが、ステロイド吸引ではないので きいていない。この頃、嗅覚が弱くなってくる。
2011年 4月 完全に嗅覚を失う。味覚障害のため、料理が作れなくなる。ロサンゼルスの耳鼻外科を受診。重度の副鼻腔炎を認め、鼻茸切除などの手術を受けることが決まる。しかし、専門医も原因がわからず首を傾げなら、対処療法的な手術となる。
2011年8月2日、副鼻腔の手術。しかし3ヶ月で再発。2011年11月 再手術。2012年1月 呼吸困難状態、通常生活がほぼできなくなる。
2012年 2月23日 昼間、足ふくらはぎに内側から湧き出る異常なかゆみを感じる。夕方、ふくらはぎ から 足首・足の甲 が腫れ上がり、夜になると腫れすぎて足首は曲げられず、膝下は紫斑※で覆い尽くされた。(フェーズ3)
EGPA 確定診断までの道のり
プライマリー・皮膚科・アレルギー専門科・リウマチ科・呼吸器科など、10人以上の医師に会い、血液検査・生検・CT・MRIをひたすら繰り返す。問題はドクターのオフィスも遠く、バラバラだということ。しかし 誰も診断を下せず。
好酸球数は210,000。割合の算出は日本と異なりアメリカは低くでるらしいが、それでも60%を超えていた。(アメリカの正常値は 0.4以下 ) IgEやリウマトイド因子も全て異常値。しかし、当時着目できる医者もおらず、何も処方されることもなく3ヶ月未治療状態が続く。(アメリカの医療制度は日本とは若干異なり、日本の総合大学病院のような治療を受けるのは難しかった)
朝、同居人が枕元に水と常温のヨーグルトを置き、日中はひたすら寝たきりでそれを口に含ませ、ひたすら同居人の帰りを待つ生活となった。トイレにいくのも介助が必要で、日中はほふく前進で行くしかなかった。
すでに入学金を払い、手続きを済ませていた現地の大学院は、通学を諦めるしかなかった。
2012年4月半ば、今までのチャート(検査結果)をすべて持って、80km 離れたロサンゼルスの日系人医師(プライマリー)を訪れる。日系人に膠原病が大変多いため、その医師はすぐさま自己免疫疾患を疑い、専門医へ紹介状を書き緊急予約。
2012年 4月26日、ビバリーヒルズ の Cider Sinai Hospital へ。
「 Connective tissue (膠原病) だと思う…でも Lupus (SLE) ではない… 何だろう。ちょっと考える。」
夜20時くらいに、留守電が残っていた。翌朝すぐ折り返すと、医師自らすぐ電話口に出てきて興奮した様子で、
「 信じられない、あなたチャーグ・ストラウス症候群よ!今すぐ処方箋出すから、ステロイドをはじめて。あぁ、こんな長く治療してなかったなんて信じられない!」
寝たきりになってから、ちょうど3ヶ月が経過。やっと診断が下りた。ショックよりもホッとした。
EGPA 予後
当初は緊急で プレドニゾン 80mg、その後 60mg から正式に開始。急性ステロイド糖尿病を発症し、徐々に減量。
途中で、健康保険打ち切りが決まり、日本帰国が決定。10時間以上の飛行機の旅に備え ステロイドを大幅減量が必要となる。そのため、免疫抑制剤メトトレキセート (Methotrexiate, MTX) 併用を開始。(2012年 5月)
2012年 8月、再燃。ステロイド急激に減らしすぎ・帰国のストレス・夏の暑さが原因。プレドニゾン10mg → 40mg。
その後、2014年 MTX中止。ステロイド治療のみ。診断の遅れにより、ふくらはぎの神経炎(ニューロパシー)は後遺症となった。そのほか、好酸球性副鼻腔炎、耳管の病気が、強く残っている。呼吸はステロイド吸引器がないと苦しく生活はできない。肝臓が少し弱り気味。しかし、それ以外は自立した生活は送れるようになった。
2020年1月現在、プレドニン 5mg 大幅減量中。
EGPA 診断の助けになったこと
1. 正しい診断ができる専門医
わたしの診断が遅れた最大の理由は、正しい医者になかなか出会えなかったからだ。アメリカの医療制度の闇だが、まず国民皆保険がない。そして医者はかなり玉石混合。詳細はふせるが、超高額な新薬でわたしを実験しようとする医者もいたし、ヤブ医者もいた。。別のリウマチ医師は、好酸球に着目することもなく見逃した。
適切な診断をしてくれたドクター・ガーバーに、心から感謝したい。
2. 友人のサポート
家族がいなかったので、友人に救われた。
原因がわからず、心身ともに疲れ果てていたわたしは、もはや激痛にも慣れはじめ、判断能力が鈍っていた。
そんな中、ある友人が「 SLE (Lupus) の知り合いがいるんだけど、なんか似てる気がする」とメッセージをくれた。その人とのコミュニケーションをきっかけに、再度診察を受けることを決意。のちに診断医となる医者に紹介状を書いてくれたロサンゼルスの日系人医師を訪ねることができた。アドバイスをくれた友人の行動は、奇跡だった。
また、何度も病院に付き合ったり、手術に立ち会ったりしてくれた、素晴らしい友人たちがいた。
同居人は、ひどい渋滞の中2時間かけて仕事終わりに何度も迎えに来てくれた。生活をサポートし精神的に支えてくれた。ヤブ医者の法外かつ毎日送られてくる請求書に対し、直接交渉してくれたりまでした。
ある友人は妊娠していてお腹も大きかったのに、階段を降りるのを補助したり、車椅子を押してくれた。病気がわかったあと、気分転換にいろんなところに連れて行ってくれた友人たちがいた。遠く離れた、サンフランシスコから飛行機や車で会いに来てくれた友人もいた。
彼らは一人二人ではなく、とてもたくさんいた。
そんな素晴らしい仲間と、日本での治療を開始するにあたって、離れ離れになったのは到底受け入れられるわけもなく、日本に帰ってからは浦島太郎状態で、孤独と不安でずっと辛い思いをする。自信を失い大きな損失感と孤独感により、毎日本当に泣いて過ごしていた。
しかし、彼らのしてくれたことを無駄にしたくない、という思いで、今まで頑張ってこれたのも、また事実である。
2013年2月、ちょっと無理して日本で再就職。
2013年半ば、大学院の入学試験を受ける。闘病2年目の2014年から、アメリカの州立大学MBAに、オンラインで再挑戦。当初は足の血管炎のせいで椅子に座れないので、ベッドで腹ばいになってレポートに取り組む。体調を崩して入院した時も、病室からレポートをアメリカへ送った。一部の授業は、現地ボストンで受ける。2017年、首席卒業。現地の卒業式にも参加。
その後、ソーシャルライフにも積極復帰。
日々のセルフケア
入浴・電気毛布・スロージョギング・ラジオ波・ヨガ・ズンバ
メッセージ:EGPA診断を受けたばかりの方へ
自己中 になってください。迷惑とかそんなことはどうでもいいのです。助けを求める努力 は、実は難しい。ですが、我慢しないで発信してください。助けられた恩は、いつか遠い遠い未来、あなたの前に 困った別人がふらりと現れた時、そっと手を差し伸べてあげればいいのです。今じゃありません。今は迷惑をいっぱいかけて大丈夫です。
外見は気にしないでください。無知な人は「太ってるのに病気?」とか「自己管理できないのね?」という先入観を持っていますが、完全に間違っています。ステロイドで急に太ろうが、ニキビができようが、多毛になろうが、生きてるだけで頑張ってるのです。それ以上、頑張らなくていい、とわたしは思います。
日記をつけることはおすすめです。薬や食事・体重の推移を記録するだけでなく、葛藤を文字に書き起こすことによって、気持ちが整理できるからです。また、何か感謝ができることがあれば書き留めてください。どうしても辛くなった時・相手を信じられなくなった時、振り返えったり自分の言葉に癒されることができます。
EGPAとともに生きることは高い確率でできます。だからと言って、楽ではありません。終わりのない治療、目に見えない倦怠感・・・日々葛藤があります。これは EGPA患者さんの多くが抱えており、あなた一人では決してありません。EGPAとの付き合いは長いので、先のこと(体調・仕事・家庭・結婚)を考えて不安にならない EGPA患者さんは、実際ほとんどいないようです。
なので、わたしは 遠い未来はあえて考えないようにしています。「なんでわたしがEGPA?」その答えも多分出ません。大事なことは、その日1日1日の中、ハッピーと感じられる時間を1秒でも増やすこと。なぜなら、お金は墓場には持っていけますせんが、思い出は天国に持っていける、と考えているからです。
生きてるだけで頑張ってる。本当に。だからこのサイトが、情報の少ないEGPAのことを知る上で、あなたがちょっとラクに情報収集できたら 大変嬉しく思っています。